2012/08/11
この館の来歴について
建物は大正前期頃の建築。
時代の先端であったデザインのモダンな建物であった。
1階は広々としたホール、2階は女給などが使用する個室となっていた。
当初は「カフェー胡蝶館」として開業する。
当時、既に増えてきていた女給がテーブルに着くスタイルのカフェーだったが、
容姿、才覚共に優れた女給を多く抱え、
文芸・絵画・音楽・舞踏などに秀でた知識人の支持を得たという。
彼女達は彼らの才能の開花に大きな力となった。
その後、戦後恐慌・銀行恐慌・関東大震災・昭和恐慌と相次ぐ不況、
そして後の大戦に繋がっていく治安維持の強化により閉店を余儀なくされる。
建物は震災にもその後の戦火もまぬがれるが、
戦後、カフェーはより過激なサービスを行う店舗が増え、
店主は営業再開を断念し、朱里の曽祖父に店舗を売却する。
脇坂翁はこの建物がこのまま朽ちていくのを惜しみ、
自らの別邸とし、維持修繕を行い華やかしき頃の姿を残すこととなる。